上野大仏のパゴダと顔で合格祈願

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上野公園の片隅にある

何度行ったかわからない上野公園はいつも通りに賑わいを見せていたもののこの日は寒かった。花園稲荷や五條天神社を見て回り博物館だの噴水だのとお馴染みの風景を見た後帰ろうとする。 そうすると決まって横目で見てしまう上野大仏。夏に元気に咲いていただろう木々の葉は冬にはそろいもそろって枯れている。そんなスカスカの木々の合間に見えるのがこの光景。

ここに来るまでに決まって私は疲れている。だから物珍しい風景なんだけれどもカメラを手に取るまで行かないのが上野大仏。「鶏肋」という言葉はあの曹操にちなむ言葉だが私の東京において個の風景はまさに鶏肋。 この日も行くか行かないかの天秤に自分をかけさんざん悩んで疲れて仕方ないけど足を向けることにした。

上野公園の片隅、と私は言う。しかしこの公園はよくよく考えると隅っこの方まで面白い。

小高い丘をすこし登り見えるパゴダ

 

上野大仏から感覚的に遠ざかっている理由として”すこし登るから疲れる”というのがあるかもしれない。大仏はやや高くなった丘陵状のてっぺんにあるのだ。高さは約10か。 ビルの1/2ぐらいの高さで大福みたいな形をしている。小高いから上野公園を見渡すことができるなんていう気の利いた特典もある訳ではない。見えるのは生い茂った木々とカラスぐらい、というのは私の偏見でしかないのであしからず。

何があるかと言えば、パゴダと呼ばれる石づくりの建物があってその隣に大仏様のお顔がある。これは何でも”落ちない”ということに肖って色々とご利益があるそうなのだが全く興味なしだ。 確かに珍しい風景ではある。しかし取り立てて好奇心全開になるような風景ではなかった。しかしこれが日常の雑踏で生きる私の中で地味に脈々と息づいているから不思議である。 だから何度も来てしまうのかもしれない。

幾多の災難に見舞われた顔

上野大仏はこれまで数々の災難にあいそのたびに存亡が危ぶまれてきた。尤も顔だけとなった大仏の顔を見ればその苛烈さは手に取るようにわかる。 顔の脇に添えられた写真を見ると嘗ての凛々しい姿の大仏が映っているのだが、今ある風景からその体裁を想像するのはなかなか難しい。

やはりもとは大仏といわれるだけあって顔の大きさは大人の背丈くらいある。青銅製であろうか重厚感に満ちた表面は厳しい表情と相俟って重々しい雰囲気を醸成している。 こんな風に間近で見ることのできる大仏は日本でもこの上野大仏ぐらいなものだろう。

合格祈願のスポットとして

そんな風に曰くつきといってもいい上野大仏なのだが、その歩んできた道程に感銘を受ける人が多かったのか、今では”落ちない”ということに肖って合格祈願の場所として広く知られることになった。

上野大仏の顔の前に立ち何をどうすればご利益に預かれるのかは定かではない。しかしおみくじや絵馬などが用意されているので願いをこめひくなりなんな利すれ合格祈願の願いが届くのではないかと思うのである。 実際合格祈願はじめさまざまな願いが書かれた絵馬が多数かけられており風が吹くたびにすこし音を立てていた。

そんな合格祈願の願いがかなう場所として顔だけでご利益を授けている上野大仏だが、なにぶん人が少ないのが少々寂しかった。

来た甲斐があるってもんだ上野大仏

すこし上野大仏について否定的なことを書きすぎたかもしれないが、その否定さが私にとって魅力なのだ。夏場に行ってみると木々の緑がよく映えて生き生きした風景が広がっている。 大仏様もどこかみずみずしいしパゴダも活力に沸いて触ったらご利益を感じないだろう私の場合は。

なんだかここに集まる人すべてが洗われている感じがする。日常の雑踏に疲れ喧騒に倦んだら来てみるといいかもしれない。