胡録神社は南千住もしくは汐入にありました

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隅田川の近く南千住に

北千住は足立区にあり南千住は荒川区にあるという事実を経った今知った私は千住汐入大橋がその両区の境目にあり隅田川が境界線になったことを知るのだった、というのは余計な話。 荒川区に入った私はマンションの多さと高さに圧倒され河川敷を歩く人がやけにほのぼのしていることを目の当たりにするのだった。ジョギングをする人からベビーカー を引くお母さんなど隅田川の流れの如くゆったりとしておりそれは揺蕩うと表現しても語弊がないと言えるかもしれないのだった。

この南千住にて胡録神社を見つける。

無機質なコンクリートが犇めく南千住は私に否応もなく「開発と整理」という色眼鏡をかけさせる。つまりここに自然などなく憩いの場などないのであり安らいでいるとするのならそれは社会心理的に見て都会暮らしに端を発する禁断症状のようなもの 、すなわち人がモノを規定しているのではなくモノが人を規定している場所というバイアスが私のなかで起動し始める。それはゴキブリホイホイを置いておけばGたちが喜び勇んでやってくるのに似ている、という表現はあまりに不適切。 そんなこんなの偏見は胡録神社も区画整理の波によって無理やりこの地に押し込まれてしまったのではないかと悲しい期待を抱させる。事実境内の外から一瞥すると誰でもそう言う印象を受けると思うのだ。

しかし境内に入ると思いがけず違いその空間は周辺の機能的意味しか持たないマンションどもと一線を画していた。尤も胡録神社に溢れんばかりの緑があったとか誰もが癒されるなんたらがあったとかそういうことではない。 一言で言えば均整がとれている。拝殿や淋しく生えて好き放題おみくじがしばりつけられている木。狛犬。他諸々。なぜかきれいな写真が撮れたと自分では思うのだ。

胡粉を引いた臼

胡録神社を後にしようと思ったら思いがけずあった「胡粉を引いた臼」はこの美しい神社のオマケと言っていい。案内板を見る。その昔この汐入の地は大根を何かにするのが得意でその際にこの胡粉を引いた臼を使用したとのことだ。 一体この神社は南千住と言ったらいいのか汐入と言ったらいいのか迷う。おそらくその大根とは沢庵みたいなものだろう。大根といったら沢庵かおでんしかないのだから沢庵だ。とにかく漬物であることは間違いじゃないとうろ覚えの記憶で私が言っています。

菊の文様にもみえる臼でいったいどんな粉がつくられたのだろか?古の人がこの汐入の地で何をつくり何を食べたかということに思いを馳せる暇があったら私は自分の今日の夕食を何にするか考える方が有意義だと思うのだ。

胡禄神社の境内

そんな胡録神社はいい雰囲気だった。周囲こそ味気ない風景が広がっているが、そんなそっけない日常に飽和感をかんじたらこの神社を訪れてみるのがいいかもしれない。そして胡粉を引いた臼で作られた大根がいったい何なのか思いを馳せ 観照的になりこれまでの行いを振り返ってなんとなく無理だなと思ったら上野に行ける好立地の南千住。一度くらいは住んでもいいかもと思ったがお山が実家の私はやはり東北の山奥に帰りたいのだった。

取り敢えず写真を用意したので見ていってください。

落ち着いた佇まいが心に沁みる

東京の神社というのはどうしても利便性に追い遣られている雰囲気が否めない。立錐の余地なく建設されるビルなどによりその敷地を猫の額ほどの場所に移してしまったのだろうと推察できる神社は東京界隈で数知れない。 そのために特有の慎ましさとか静謐などが失われている傾向にある。

しかし胡録神社は意外に落ち着いた場所だ。周囲を高層マンションなどに囲まれながらも境内や外観がそれなりの風格を維持し厳かな空間を作り出している。 褪せた色の顕著な社殿の建材は経年の息遣いを感じさせ申し訳なさそうに生えている梅ノ木はただっぴろい境内をただっぴろいだけにしないアクセントを加えている。不均衡なようで均整な胡録神社なのであった。